筑紫哲也さんが亡くなって3週間たった。
筑紫さんと初めて会ったのは70年代。三木武夫元首相の参与、同時通訳
で名高い国弘正雄さんが御茶ノ水の「山の上ホテル」で行った出版記念会。
出席者の朝日新聞論説主幹の松山幸雄さんに挨拶をして講演を依頼した。
松山さんに「もっと若い人を」と紹介されたのが筑紫哲也さんだった。
まだほんとうに若くて溌剌としていた。
テレビ朝日の日曜日のニュースショー「こちらデスク」に出る前のことだ。
帰り際に山高帽にサングラスという長身で異彩を放つ人が、迎えの車の脇
でじっとこちらを見ていたのに気がついた。
筑紫さんの著書「旅の途中」にでてくる、有名な民族派右翼の田中清玄氏
(戦前は共産党書記長、獄中で転向)だ。筑紫さんとはあの頃から縁があっ
たのだろうか。
2回目に会ったのは筑紫さんが「こちらデスク」に出ていた頃。六本木の会場
に講演に来ていただいた。迎えに行った駅から歩いて10分の道中、筑紫さん
はずっと煙草を手から離さなかったのを覚えている。
丁度、プロ野球の江川卓投手の「空白の一日」が賛否両論凄まじかった頃だ。
朝日記者として読売のやり方に我慢がならなかったのか、始めから終いまで、
江川事件を批難していた。立場は絶対譲らないという筑紫さんの強い思いの
ようだった。
その後、NY特派員から帰ってきた頃、電車の中でばったり遭遇した。
マンハッタンでは自転車で郵便物を配達するニュービジネスが流行っているよ。
というお話を聞かせてくれた。いまでは日本でも当たり前になったけれど。

そして公共経営大学院での再会、筑紫さんは特任教授としてマスコミ論を講義。
05年郵政選挙後の学園祭に、話題になった旬の女性刺客を呼んで対決
させようという企画を作った。筑紫さんにコーディネーターをお願いし、自民党
(佐藤ゆかり、片山さつき、西川京子)、民主党(小宮山洋子、西村智奈美、
蓮舫)、の6議員で3時間にわたってバトルを繰り広げた。
大隈講堂に2千人近くの人が傍聴に押し寄せた。筑紫さんは大隈講堂にこん
なに人が入ったのを初めて見た。と言っていた。照れ屋の筑紫さんだから、
週末は地方で上手い酒を飲んでいるほうがいいんだと言いつつ、喜んでくれた
のが伝わってきた。
ときに辻元清美さんを連れてきての極端な講義には少しがっかりしたことも
あったが、演劇や街歩きなど学生と一緒に出かけ、「ニュース23」の直前まで、
顔を洗えば大丈夫などと飲み会にも付き合ってくれた。
講義の中ではエイシズム(年齢差別)を嫌悪すると言われていた。
退任する際に「まだまだ若い筑紫先生、益々のご活躍を」と色紙に書かせ
ていただいた。
筑紫さんにあるお願いをしていた。病気が回復してから尋ねようと思っていたが、
還らぬ人となった。会おうと思っていながら先延ばしにしていて、ある日、新聞
に訃報が載ってその人の死を知る。二度と会えない。こういう経験は何度かした。
それでもやはりまだ筑紫さんの死は早い。残念だった。

最後になった「多事争論」のなかで、「この国のガン」と題して「日本は未来にも
過去にも投資していない。自分と同じガンにかかっている。問題は判っている。
それに対して闘うのか。」と投げかけた。いつもに較べて長回しの「多事争論」は
筑紫さんの深い、深い蓄積と洞察を感じる映像だった。

慎んでご冥福をお祈りします。

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